ijenaの文章

独り言とお喋りの間のようなブログ。

えーん

宣言しちゃったしなあ……。

いや、話します、書きます。

表現します。

 

 

皆さんはなにをもって彼氏、彼女って言ってるんでしょう?

恋人ってなんですか? …多分、恋人って言葉は人によって使い方が違う気がします。

恋人を「恋(をしている対象の)人」って捉えれば、片思いもアリ、なんなら恋をしている相手が気持ちに気付いていない場合も含む、ってなりますよね。

恋人を「交際中の人」として使う人もいますよね、そうなったら確実に、私には恋人がいません。

だからといって前に書いた捉え方で恋人を定義しても…うーん、いません。

多分。

もはや恋がわからない。

 

私が「好きな男の子」と言うのは、昔から「すごいと思う人」でした。

私より面白い、私より算数ができる、私より……すごい!!

みたいな。

だからわかりません。世の恋愛ドラマや恋愛映画で、ヒロインが相手方の見た目で恋をしたり、突然のキスで恋に落ちたりが。

キスぐらいあります。突然のキス。

でも「だから?」といった感じです。

もっと正確に言えばそれもわかりませんでした。

どうして彼はわたしにキスをしたのか。

どうして急にしたのか。

どうして隠れてしたのか。

どうして何度もしたのか。

結局どれも当時はわかりませんでした。

嬉しくもない、いやでもない、なんともない…。

好きだったんでしょう…ね。

この答えも、幾年も経ってから。たくさんの恋愛作品を見たり聞いたりしてようやく出ました。

遅っ。

そんな感じです。

でもそれが普通の恋なんですかね、

ずっと一緒にいたい、たくさん話したい、手をつなぎたい、抱きしめたい…

それも全部特になくて、ただ尊敬しているのは、恋ではないのでしょうか…

私が恋と思っているのは恋と言ってはいけないのでしょうか

 

いやいや、人が人を好きになる理由なんて人それぞれのはず

 

いや、好きな人に手を繋がれたら私、とっても嬉しかったぞ

とても。

 

おそらく…自分からは思わなくても、そうやって尊敬して、ああ、私はこの人に恋しているんだなあと思う人に、そういう系(そういう系? )のことをされると人並みに…(人並みに? )緊張するのだろうし、うれしいです。

よかった、普通だ、きっと

私は昔から、そして今でも、変わっているとよく言われるので

どうしても普通を気にします。普通と思えば安心します。

 

そう、今、私が恋をしているのかどうかさえわからないというのは、その、

尊敬しているのではなくて、ただ「素敵だなあ」と思うだけだからです。

その人は物腰が柔らかくて、いい塩梅に大雑把で、whenで聞けば時間を、whereで聞けば場所を教えてくれる人です。

めったにいないんですよ、文法書と同じようにきちんと返事をする人って。

いつにする? なんで答えないといけないの?

とか

どこにする? とりあえず明後日にしよう

みたいな。

よくそんなので英語の勉強できたな! と思います。

それから彼はyesかnoで答える問題にも、しっかりyesかnoで答えます。

そんな人も、あまりいません。

りんごは好き? バナナは好きかな~

(おいところでりんごはどうなんだよ)

みたいな。

わかります? これ、伝わります?

あと、彼は絶対に人を責めない。(そのかわり…かどうかは知りませんが絶対に謝りませんね)

馬鹿なのか賢いのかわからないけど人間として賢いのは確か。

生きるのに必要な知恵を…うーん、でもあまり仰々しい褒め言葉は似あわないんですよね、

とにかく、

一緒にいて、ああ素敵だなあ、こんな人がいると気付いた私は見る目があるなあ、と

そーんな気持ちになる人です。

素敵なんです。ただただ。ただただ、素敵。

好き、ではない。

彼氏になってください! とか、

付き合ってください!

ではないです。

一緒にいたいなあ…と

それだけです。

 

残念ですね。

 

好きになれたら

好きだと思えたら前に書いたような言葉が出てきて、

恋人になるかもしれない。

でも好きと思わないから

ただの…

ただの素敵な人

 

一旦話を戻しますが、多分、いやおそらく、いや、多分もおそらくも一緒か、なら絶対、突然のキスで恋に落ちるヒロインは、前々からその突然の…を与えた人が気になっているんです、だから恋に落ちるんです。

 

気になるって、なんだ。

 よく使いますよね、「気になる人いるの? 」 みたいな。

何なんだ、「気になる」って。

アバウトですけど、確実に共通感覚ですよね、これ。

気にはなりますよ、

今こうして彼のことを書いているわけですから…まあ考えてますよ少し

それこそやっぱり私は彼が「気にな」っているわけですよ今まさに!

 問題は、問題なのは、私が彼の考え方、価値観に恋をしていることです。

わかります?

私と違う価値観…! 私にはできない考え方…! すごい…!!

で?

で? ってなるでしょう、

無理でしょ、この続き。

価値観が違う者同士、惹かれあったらまあそれはそれは、それこそ映画のような恋ですね、素敵と思いますが

価値観も違えば表現の仕方も解釈の仕方も違うんですよ

もはや言語以上の壁があるんですよ、

イタリア人と恋愛するのにイタリア語の勉強だけでいいならそっちの方が楽ですよ

同じ日本人で、日本語母語話者でも

無理なんですよ。

同じ空を見ても

雨は降っていない、と思うのと

あの雲はチーターみたいな形をしているなあ、と思うのとでは

わけが違うんですよ

見ているものが同じでも、

今日は晴れてよかったなあと

同じことを思っていたとしても

違うんですよ

晴れてよかったなあを共有するのにどれだけのトラップがあると思います?

「雨は降ってないね」

「ほらみてチーターだよ」

いつ、「晴れてよかったね」というセリフが出てきます?

いつですか、

待てばいいですか

いつまでですか

お互い同じことを思っているなんて

お互い同じことを伝えようとしているなんて

いつわかります? どうやってわかります?

ああ、むり。

ああ、すてき。

 

きっと私は価値観は違えど表現方法が同じ人、を探すんですよ、

きっと。

これから。

彼はきっとニアミスです。

98点。

100じゃない。

あまりにも惜しいからこんなに悔しいんですよ

多分。

多分そうです。

笑って過ごしたいじゃないですか、私はそう思います。

ストレスがたまったら

ストレスがたまったら教育番組をみます。

とても面白い。

「やぎさん ゆうびん」 という曲を知っていますか?

あれです、しろやぎさんから来た手紙食べてとりあえず手紙返すんだけど

その内容が「さっきの手紙の用事何? 」っていう

なんだそれみたいな、あれです。

そのあと、私は最近知ったのですが、その2番、しろやぎさんも手紙読む前に食べて、

とりあえず手紙を返す、っていう。

で、その内容が「さっきの手紙の用事何? 」っていう。

 

テキトーすぎる。

最初聞いたとき、くろやぎまじでひどいと思ったのですが、

おいしろやぎお前もか、というのか、

いや、手紙書いたの自分じゃん、返事気にならないのか

というのか、

もはやしろやぎさん、ほんとなんで手紙書いたの、最初の手紙に何書いたの? っていう…

しろやぎでもくろやぎでもない、手紙のやり取りに何も関係のない私が、私だけが手紙の内容を気にしているという…

おかしな構図が。

なんだろうな、何、もうお互いごはん送りあってるようなものなの?

あ、もしかしてしろやぎさん、くろやぎさんとやり取りできるんだったら内容なんてなんでもよかったのかな? …なんて考えたり。

でも結論、「しろやぎさんとくろやぎさんのやりとりなんだから、私は関係ない」とか「しろやぎさんとくろやぎさんの話。しろやぎさんとくろやぎさんがいいならいいじゃん」「たかが歌じゃん」となります。

いろいろこちゃこちゃ考えて、結局最後は全部水に流します。

小さいとき、こんなこと考えてなかったことは確実だけど、じゃあ当時の私はこの歌を聞いて何を考えていたんだろう……

きっと何も考えてませんね。

あー、やぎさんが手紙を書いて食べるやつー、とか

せいぜいその程度でしょうね。多分。

自分のことなのに、無意識に記憶から消えていることって確実にあるんですよね…。

 

まあそれよか。

最後、体操のお兄さんが大勢の子どもと簡易なダンスをしますよね。

あれみてるとなんだかおかしい。

はーい、みんなぱおーん、みたいなことをお兄さんが言って、お兄さん、すごく大きく動くんですけど、お兄さん、たくさんの子どもに向かって言ってるんですけど

子ども、9割5分は明後日の方向をむいてぽーーっとしてます。

残りの5分くらいのなかには真面目にお兄さんと同じことしている子もいるけど、

でもそんなのほんのほんの少しで、

5分のなかの9割5分くらいもまた、明後日の方向を向いてぽーーっとしながらなんとなく腕がお兄さんの指示通りに動いているかなー…みたいな。

お兄さん、一体誰に向かって話してるんでしょうね。

お兄さんの言葉は誰宛なんですかね。

なんか体操の光景が社会の縮図そのものな感じがして。

体操の光景を社会の縮図と置き換える自分、よっぽど疲れてんだな、と

思ったり、思わなかったり。

想像したらおかしかった。

上の人からの指示をもらうんだけど、上の人は目くじら立てて、まるでこの世の終わりのように、その指示が遂行されないと世界中の価値がなくなるみたいな、すんごい大げさなこと言うんだけど、

私含め、多くの部下はそれをテキトーに受け取って…いや、受け取ることもしないでおにぎりむしゃむしゃ食べてる、みたいな。

「おい! これをやれ! 」

「…お茶ください」

「次はこれをやれ! 」

「ん? 次って何の次ですか? 」

「全部終わったら報告しろ! 」

「わっかんねー…あ、トイレ行こ」

(おい、お茶はいいのか! )

みたいな。

思うんですよね、お兄さん本当は何がしたいんだろうなーって。

ぱおーん、じゃなくて腹減ったー、とかじゃないの? みたいな。

わかんないですよね、上の人にとって、下に指示を出す上の人にとって、もしかしたら本当に、その指示の内容はとっても大事で、その人にとっては世界なのかもしれない。

だったら…

だとしても私には世界ではないし…早くごはん食べたいし

みたいな。

そうそう、結局教育番組の体操の時間の子どもなんです。

ぽーーっとして。

 

だからこそ思うんですよね、大事なことが同じ人に会うってすごいというのか、

大事というか…。

すてき、というのか…。

 

はい、この流れ、次は恋の話ですね。恋の話をしましょう。そうしましょう。

好きなこと、おはよう

ブログを久々に更新します。

たくさんの変化がありました。

ピアスをあけました。

フランスに行きました。

沈黙の彼に会いに行きました。

新しい仕事を始めました。

声楽を習い始めました。

新しい先生にピアノを習い始めました。

少し前まで予想できなかったこと、たくさん。

お酒、特にワインが大好きです。

好きなもの、こと、たくさん。

ピアノ、歌、料理、塗り絵、語学、R&B、古着、化粧、

あと人。

それから、今。

忘れちゃいけない、文字で表現することも好き。

最近は詩も書きます。

なんとなく、でも確実な気がしていることがあって、

いつまでも沈黙の彼をおもっていたのは、私が芸術が好きだからだと思う。

愛とか恋とか、そういうことを考えるときに対象が必要だったのです。

いつも、いつまでも同じ彼のことを考えていたのには、

これから先、私が表現したいことを表現するための重要な材料として必要だったのでしょうし、そうなってくれることでしょう。

そんな気がします。

自分は何が好きなのか、最近よく考えます。

好きなことが多すぎてたまにわからなくなります。

特に用はないけれど休みをとってみたり。

そうしたらちょっと冷静になります。

仕事がとてつもなく楽しくて、

最初は好きなことをするための資金を作るために始めたのに、

それがずれてきて、

ずれてきたことに気付かなくて、

思い出せてよかったです。

そう、それで自分は文章を書くことが好きだったんだと思いだして、

ブログを更新するにいたった、と。

文章にしたいこと、誰か、人に読んでもらいたいこと、ちょっと文章にして整理してみたいことがいくつかあるので記事をわけて順に書こう、更新しようと思います。

わたしはピアノを弾くことができます

 わたしは4歳からピアノを始めた。わたしはピアノと一緒に歳をとっている。昔学校で未来の自分にメッセージを書かないといけなかったので「わたしはピアノを続けていますか? 」と書いた。書きながら「わざわざ聞くまでもない、続けているに決まっている」と思っていたことをよく覚えている。幼かった頃のわたしはどうしてあんなに確信していたのだろう? どうして未来のことがわかったのだろう? でも、その間に起こることは何ひとつ想像できていなかった。

 

 その翌年、「そんなに指を動かしている暇があるならそれぐらい脚を動かしてその太い脚をなんとかしたらどうなの? 」と言われた。

 その翌年、「生ゴミみたい」と言われた。

 その翌年、「とっても上手だね」と言われた。嫌味に聞こえた。

 

 その翌年、ピアノをやめる決意で弾いた演奏のあと音楽の先生に呼び出され「今まであなたのような演奏は聞いたことがない」と言われた。わたしはとても泣いた。

 「テクニックを何も知らない」とも言われた。わたしは知らなかった。このことをレッスンを受けている先生に伝えると、「そのことは随分前から知っている」と言われた。わたしはまた泣いた。

 その翌年、わたしは学校の先生に教わることにした。彼女は熱心だった。でも、それは短い間のことだった。わたしは以前の先生のところへ戻った。

 その翌年、わたしは朝練をするようになった。毎朝5時半に起きて音楽室に通った。わたしは朝が弱い。でもなぜか寝坊しなかった。音楽室担当の清掃員のおじいさんとお友達になった。趣味は家庭菜園で、起床時間はおじいさんの方が早かった。

 

 わたしはピアノを弾く。今も。でもなぜ? なぜ弾くのだろう? 楽しい? 楽しいか? つらい? わたしはわざわざつらいことをしているの? やめる気はない。なぜ? ――もう聞かないでほしい。理由なんてないのだ。弾かずにはいられないのだ。わからない。でもただひとつ言えることがある。わたしはピアノに関して、他人のことばを聞かない。他人のことばを信じない。褒められてもけなされても、弾いてほしいと言われてもお前の演奏に価値はないと言われても、それらは全部本当であり嘘である。わたしはわたしが弾きたいと思ったときに弾き、思わないときは弾かない。わたしは誰かのために弾いてるのではない。

 

 「あなたのピアノはやさしい。気持ちがこもっている」と言われたことがある。当時は嬉しかった。でも気持ちで飯は食えない。そもそもわたしはやさしくない。

 「お前の弾き方が一番好きだ。目を閉じていてもお前の演奏だけはわかる」と言われたことがある。好きと言われて嬉しかった。「ピアノを弾けない人がどうして聞き分けられるのだろう? 」と不思議に思った。不思議も何も、それは告白ではないか。当時の私は何ゆえことばをそのまま受け止めたのか。

 

 ああ、どうしてメッセージは「未来」宛てに書かれたのだろう? 未来の自分とは、そのメッセージを書き終えた直後からの永遠の自分ではないか。わたしはいつまでも、昔の自分に「ピアノを続けていますか? 」と確認され続ける。終わらないのだ。ずっと。

 

沈黙、やさしさ、恋、本質

 

 わたしの財布には、随分前から5円玉の張られた10センチ四方の紙が入っていた。昔、彼氏にもらったものだ。それを今日、卒業アルバムに挟んだ。「学生生活の思い出」になったのだ。

 

 いつも連絡はわたしからないといけなかった。(なぜ? )それが、連絡しても返事をしなくなった。自然消滅? いや、振られた。沈黙は金雄弁は銀と言うけれど、わたしは喧嘩をしたかった。このとき、わたしはわたしたちの仲人をした人に伝えた。彼はかつてわたしのことを想っていた。でも身をひいた。前にそう本人から聞いていた。彼はわたしの泣き言にすぐに返事をした。

 

 お世話役の彼とは何度か会った。

 沈黙の彼は今、卒業アルバムに書いた夢に着実に近づいている。

 わたしがほしいのは彼か、彼の地位か、それとも彼氏なのかを考えたら答えはすぐに出た。きれいごとはなしだ。

 

 

 一番を手に入れるには、敵と犠牲が必要。

 でも彼らの存在を意識すると二番になる。

 

デニムのズボン、スカート

 

 前の日と同じスカートをはいた。それは買ったばかりでとても気に入っていた。だからはきたかった。これは進歩。

 

 ――昔、わたしは3本のデニムの長ズボンをまわしてはいていた。ある日、本当にある日だけ、前の日と同じデニムをはいても誰もわからないのではないか、と思った。それに、なぜかどうしようもなく前の日にはいたズボンをはきたくなった。他の2本ではなくてそれがよかった。だから何食わぬ顔、いつも通り前の日と違うズボンをはいていますの顔で学校に行った。すると昼、わたしが前の日と同じズボンをはいていることを小声で話している人がいた。周りは騒がしかった。ただわたしの耳が良すぎた。その人はわたしが好意を寄せていた人だった。

 それ以来、もう何年経っただろう、1週間毎日違うズボンかスカートをはくようになり、週6で電車に乗るようになってもそれは変わらなかった。

 

 デニムの長ズボン。関心を持って見なければ、3本とも同じに見えるのではないか? わたしの特殊な日――前の日と同じズボンをはいた日――に限らず、その人は私がいつも同じズボンをはいているように見えていたのではないか? いや、わたしに関心があったから、服装の変化(「変化」なのか? )に気付いたのではないか?

 今になって他の解釈を考えても、どれが正解かわからない。ただ、それは長い間わたしに影響を与え、わたしの選択に関わり続けた。

 

 黒のスカート。少しバルーン。試着室ではいたとき、びっくりした。なぜかそのスカートをはいたら髪型を変えたくなった。後、私は自分用のヘアアイロンを新調し、巻き髪になった。

 

 突然に何かは変わる。けども「突然」が来ない限り変わらない。

 もっとたくさんの突然がきてほしい。けども少しこわい。

 突然が去った後、胸をすく風がふき、

 何も変わらない日常がよく見えるようになる。