ijenaの文章

独り言とお喋りの間のようなブログ。

わたしはピアノを弾くことができます

 わたしは4歳からピアノを始めた。わたしはピアノと一緒に歳をとっている。昔学校で未来の自分にメッセージを書かないといけなかったので「わたしはピアノを続けていますか? 」と書いた。書きながら「わざわざ聞くまでもない、続けているに決まっている」と思っていたことをよく覚えている。幼かった頃のわたしはどうしてあんなに確信していたのだろう? どうして未来のことがわかったのだろう? でも、その間に起こることは何ひとつ想像できていなかった。

 

 その翌年、「そんなに指を動かしている暇があるならそれぐらい脚を動かしてその太い脚をなんとかしたらどうなの? 」と言われた。

 その翌年、「生ゴミみたい」と言われた。

 その翌年、「とっても上手だね」と言われた。嫌味に聞こえた。

 

 その翌年、ピアノをやめる決意で弾いた演奏のあと音楽の先生に呼び出され「今まであなたのような演奏は聞いたことがない」と言われた。わたしはとても泣いた。

 「テクニックを何も知らない」とも言われた。わたしは知らなかった。このことをレッスンを受けている先生に伝えると、「そのことは随分前から知っている」と言われた。わたしはまた泣いた。

 その翌年、わたしは学校の先生に教わることにした。彼女は熱心だった。でも、それは短い間のことだった。わたしは以前の先生のところへ戻った。

 その翌年、わたしは朝練をするようになった。毎朝5時半に起きて音楽室に通った。わたしは朝が弱い。でもなぜか寝坊しなかった。音楽室担当の清掃員のおじいさんとお友達になった。趣味は家庭菜園で、起床時間はおじいさんの方が早かった。

 

 わたしはピアノを弾く。今も。でもなぜ? なぜ弾くのだろう? 楽しい? 楽しいか? つらい? わたしはわざわざつらいことをしているの? やめる気はない。なぜ? ――もう聞かないでほしい。理由なんてないのだ。弾かずにはいられないのだ。わからない。でもただひとつ言えることがある。わたしはピアノに関して、他人のことばを聞かない。他人のことばを信じない。褒められてもけなされても、弾いてほしいと言われてもお前の演奏に価値はないと言われても、それらは全部本当であり嘘である。わたしはわたしが弾きたいと思ったときに弾き、思わないときは弾かない。わたしは誰かのために弾いてるのではない。

 

 「あなたのピアノはやさしい。気持ちがこもっている」と言われたことがある。当時は嬉しかった。でも気持ちで飯は食えない。そもそもわたしはやさしくない。

 「お前の弾き方が一番好きだ。目を閉じていてもお前の演奏だけはわかる」と言われたことがある。好きと言われて嬉しかった。「ピアノを弾けない人がどうして聞き分けられるのだろう? 」と不思議に思った。不思議も何も、それは告白ではないか。当時の私は何ゆえことばをそのまま受け止めたのか。

 

 ああ、どうしてメッセージは「未来」宛てに書かれたのだろう? 未来の自分とは、そのメッセージを書き終えた直後からの永遠の自分ではないか。わたしはいつまでも、昔の自分に「ピアノを続けていますか? 」と確認され続ける。終わらないのだ。ずっと。