ijenaの文章

独り言とお喋りの間のようなブログ。

強調しない

 

 

面白い話を、どうして面白いと感じるのだろう?

 

あまり起きなさそうな珍しい話だから?

 

聞く前から気になっていたから?

 

面白い話の中には、ちょっと盛られたものがあると思う。

 

尾ひれをつけたり、「程度」を強調したものがある。

 

私の考えだが、

 

話全体に嘘をまんべんなく散らす人は「周りの反応を楽しみたい人」、

 

微々たる変化を大げさに伝える人は「話し上手と思われたい人」だ。

 

周囲をこっそり支配したい人なのか、周囲からの注目を集めたい人なのか…

 

そんなところである。

 

私は恐らく、前者の存在に疎い気がする。

 

辻褄が合わない話をふんふんと聞き、

 

「しない方がいい指摘」を無意識にやってしまいがちだ。

 

世渡りがへたくそだ…。

 

計算高い話に水をさしてしまう。

 

私は「ドン」と呼ばれる誰かに好かれた試しが人生で一度もない。

 

私の方は全く悪気がない。

 

だがこの世界で故意過失は問われない。結果が大事なのだ。

 

そういった意味で、私は常に損をしている。

 

 

何でも口に出してしまうわけではなく、

 

後者に対しては敏感な反応をする。

 

「ちょっとへこんだ」程度の話を「眠れなくなるくらい悩んだ」と言われたら

 

「まことか?」と思ってしまう。

 

すごく疑う、あるいは、丸のまま信じ込んでしまうのだ。

 

眠れなくなるくらい、というのは例え話であり、程度を表しているだけで、

 

実際はしっかり寝ているかもしれない。

 

でも、眠れたのなら悩んでいないのかと問われるとそうでもないだろう。

 

 

感情は雰囲気で感じ取るものだ。

 

 

笑っていなくても歯が見えていたら笑っているように見えるのもそうだ。

 

本当かどうかを勘ぐってしまうだけの材料が常に散らばっている。

 

 

だが、主観が入りがちだとも思う。

 

自分基準で同じ立場を想像しても無益だ。

 

かといって誰かの世界観をそっくりそのまま感じることもできない。

 

やけくそになってまとめるとしたら、他人の感情起伏もエピソードトーク

 

面白くないのだ、全く。

 

見られ方を意識して話すことに私は慣れていない。

 

見られ方を意識して話されても、私はあまり気づけない。

 

 

面白かったら深く疑い、

 

面白くなければくだらないと受け流す。

 

私は強調された話が好きではない。馬鹿を見るのが嫌だからだ。

 

ただ、自分自身が話すときも、少々盛った方が

 

フィクションが入り、自分のプライバシーが守られているようで話しやすい。

 

これも嘘なのだろうか?

 

よくわからない。

 

道徳教育的には、自分がされて困ることはすべきではない。

 

それは些細なことでもそうなのだろうか?

 

話を強調することは道徳的に間違っているのだろうか?

 

何かあった時あれやこれやと頼ること前提に動いた方が

 

もしかすると生きやすいのかもしれない。

 

人を遣いっぱしりにするのと何が違うのだろう?

 

「持ちつ持たれつ」という考えは

 

私にはまだ早い。